古典芸能部・ムーラン班調査続報(その3)
2011.09.20
6月以来、本校古典芸能部有志が3ヶ月強に渡って調査をしているムーランルージュ新宿座。当時の座員である滝輝江さんのご証言が発端となり、本校でも公演があったことが判明。招聘者が当時の生徒であることまでもが判明しました。
また公演の様子は前回ご報告した通り「浜田寄稿」に詳しく、それを携えて、顧問が滝輝江さんを横浜青葉台へ訪ねました。
滝さん曰く、「(感嘆されながら)これが公演の様子ですか…。よく残されていましたね。佐々木千里氏はピアノが弾けたので間違いないでしょう。(微笑まれながら)ただひとつ訂正したいのは、腰みのだけを身にまとったフラダンス、というのは勿論誤りで、胸は隠しての公演でしたよ」。そして、滝さん所有の大変に貴重な写真をお借りすることができたのです(写真1)。これは、公演1ヶ月前程前に新宿駅南口で撮影されたもので、この方々が本校公演の主なメンバーとのことです。滝さんご自身はオリエンタルダンスをされたとの事でした。滝さん、数々のご親切を本当に有難うございます。
さて、これにて本調査に一段落ついたやに思える我々ムーラン班。17日は今夏の我々の研究のきっかけをくださり、かつまた、種々お世話を頂きました田中重幸氏の監督作品「ムーランルージュの青春」の公開初日でした。
それに伴い開催されたトークショーに出演されたムーランの大スタア「明日待子」さんへの花束贈呈の大役をわが一座が仰せつかりました。
明日待子さんは「元祖アイドル」で、91歳になられる今も御壮健そのもの。札幌にて日本舞踊のお師匠さんとして後進の指導にあたられています。贈呈後、マスコミ向けのフォトセッションが設けられました(写真2)。ご着席されているのが明日さん)。贈呈役の中学3年生島貫君と徳田君は、帰り際に新聞記者氏より取材を受けておりました。その受け応えは大変、堂に入ったものでした。2人にとってはよい経験になったことでしょう。
ところで、公開劇場へは我々の研究成果をまとめた3枚のパネルが置かれております(内1枚が写真3)。パネルを御覧になりながら、感嘆の声をあげられるお客様がおられ、その声を耳にされた他の方々が十重二十重となって御覧頂く様子を目にし、我々作成者は満ち足りた気持ちで劇場を後にしたのです。
(写真1)
(写真2)
(写真3)
翌18日は新宿三栄町にある新宿歴史博物館にて行われたシンポジウムにお招きを受け、ムーラン班の内の数人が参加。研究成果を発表してまいりました。
聴衆は立ち見もでる満員でその数百数十(写真4)。そこへ高校部部長熊谷君、中学3年の市原君と田村君が登場。「中高生がムーランの研究をやっているのですか!いやぁ、実に頼もしいね」といったお声をはじめ、数多の好意的な激励を頂戴するなかで講演が開始されました。
プロジェクターに映し出される今夏の研究過程と、それに伴って明らかになった事実の数々。これらが、熊谷君の講談師ばりの進行で紹介されていきます(写真5,写真6)。
随所に野末陳平、本庄慧一郎両先生に好リードを頂いて、場内は、時に感嘆の声、そして時には笑いが渦となり、最後は盛大な拍手を賜って無事終了となりました。
講演後に頂いた「今回のシンポジウムにあって、海城のみなさんの講演は、爆笑につつまれて誠にムーラン的」との田中重幸監督からの言葉に一同、この日に向けて努力してきた甲斐があったと、喜びあった次第です。また、監督は「いつかムーランが化けて少年たちの新しい才能を芽吹き、別の旅へつながることを期待します」と続けられ、我々は感激のうちに、この3ヶ月をしみじみと振り返ったのです。
ところで、この2日間は文化祭であったため、「海城寄席」とかけもちでの出演でした(写真7)ので、浴衣姿での花束贈呈及び講演となりました。
かくなるご好評を賜ったことに気を良くした我々に「一段落」という文字はなくなりました。次なる我々の調査目標は、ムーラン海城公演の「出演料」がどのようなものであったか、と決定しました。
昭和21年の11月といえば、戦後の統制経済時代。新宿は、いわゆる「闇市」で名を馳せていた頃です。
評伝によれば、ムーランの支配人であったこの佐々木千里氏、座員が他の興行会社に「引き抜き」をされて転出しても、転出先でのその座員の活躍を楽しみにしていたという器量人。それゆえ、新しい日本を担う中学生の心意気に感じた同氏が出演料なしで公演を快諾したことは十分に考えられます。が、だからこそ余計に本学が返礼をしなかったとは考えられないことと思われてなりません。
そこで、俄然、浮上してくるのが、本校の「農場」の存在です。戦後の数年間、本校は都下久米川町(当時)に農場を所有しており、この年は大豊作であり、教職員はその恩恵に大いに預っていたとのことです。そして、その農場担当責任者は、ムーラン海城公演時の会場係であり、後に「追想」なる稿で、この公演のあらましを記載され、我々に衝撃を走らせた社会科教諭浜田裕氏なのです。
果たしてムーラン公演への返礼は食料難時ゆえの「現物支給」だったのか否か。更なるご報告まで今暫くお時間を頂戴したいと存じます。
(古典芸能部顧問)
(写真4)
(写真5)
(写真6)
(写真7)