古典芸能部・ムーラン班調査続報(その2)
2011.09.10
前回、昭和40年2月発行の「海原」第6号における浜田裕氏寄稿の「追想」を目にした我々に大きな衝撃が走ったとお話し致しました。
それは、そこに次の記述があったからなのです(写真1):
『戦前派の人々にとって新宿のムーランルージュと言えば、洗練されたユーモアとさびのきいた社会風刺で山の手のインテリや学生達を引きつけた軽演劇の殿堂としてなつかしい名だ。その一座、スターの明日待子を中心としてオールスターのメンバーが、質実剛健と海軍魂を教育の目標としたわが海城に出演したと言ったらまさに世紀の驚異であろう。生徒の父兄の一人がムーランの経営に関係していたので、戦後最初の文化祭に出演をと交渉したところ、快諾。一座のダンサー全部が学校に出演したが、これはおそらく全国で最初でそして最後でなかったろうか。それ程その時には生徒も職員も第一回の文化祭の開催に対して異常な熱意をもっていた。こちらでは、寸劇でもやってくれるのだろうと思って、一座の限りなき好意に感謝���たものである。この時の会場係りは大変だった。現在の一号館を急ぎ改造、教室中の教壇を集めて積み重ね、歩くと、ギシギシ音のする急造のステージ。終戦で占領軍から使用禁止となった大日本帝国地図を集めて、窓全体にぶら下げてカーテン代用の遮蔽幕とした。さて全校生、好奇と期待とを織りまぜてかたずをのんで待つうちに、佐々木千里氏の軽快なピアノの前奏のリズムに合せて静かに幕が開く。とその瞬間、全生徒の中から安心とも不安ともつかない複雑な溜息が。不備なうす黒いライトに照し出されたそのステージは、ああ、全裸の腰みのだけのフラダンス。リズムに合せてぎしぎしする舞台で所せましとばかりの青春の発散。全く度肝をぬいた意表外の演出に、全生徒、職員全くの恍惚境に陥った。あのときのみんなの満���げな、微笑が顔をゆがめている光景が目の前に浮かんでくる。
戦後のあてのない虚無感と追いつめられた深刻な食糧難の絶望の中で、一時なりとも全校生徒職員がともに微笑の中に楽しく過ごした昭和二十一年十月の文化祭(編集子注:十一月の誤りか)は、この行事の舞台裏を受け持った私としては懐かしい思い出の一つである。』
(写真1・浜田氏寄稿)
これだ、まさにこれこそ我々が欲していたムーラン海城公演の概要だ、と欣喜雀躍した次第です。やはり招聘者は、学園ではなかったようなのです。
筆者である浜田裕氏は、昭和18年より昭和59年まで、実に四十余年に渡り、本学に尽力された社会科の先生でいらっしゃいます。お会いしてお話を伺いたかったのですが、先生は惜しくも既にお亡くなりになられていることが分かりました。それにつけても、時代の空気が存分にうかがえる名文に思われてなりません。
この文献を、映画「ムーランルージュの青春」を監督された田中重幸氏へ紹介したところ、次のコメントを頂きました。
「素晴らしいです。海城公演がどんなものだったかがリアルにわかります。映画的です。誰かムーランの戦後の公演をシナリオにしようとすると大変貴重な資料になります。そしてここで何よりも驚く事実は、佐々木千里がピアノを弾いていたということです。このことを滝輝江さんたちへ確認し、事実であるとの証言が得られればすごいことです。皆さんの調査は、歴史に残ることをやられているのです」
かくなる激励を受けた我々の士気はおおいにあがりました。そして、浜田文献にある「ご父兄がムーランの経営に携わっておられた本校OB」を捜索すれば、自ずと招聘者と招聘の経緯が判明し、この調査も一段落すると考え、ここは頑張りどころと、調査し続けることとしました。
田中重幸氏より頂戴したムーランルージュ新宿座在籍者名簿のうち、経営陣の項を座右に、調査を開始すべく準備しました。しかし、これは雲を掴むようなことになりかねないと判断。いまひとたび、OBの方々への電話取材をすることといたしました。
この取材中、昭和21年の文化祭は11月1日、2日と2日間行われたはずで、とりわけムーラン公演は「芸能祭」の最後に行われたはず、と何人かの方々よりご証言を頂きました。これはしたり、と資料室で再度調査すると、なるほど1日目は体育祭(写真2)が、2日目が演劇会部による「ベニスの商人」公演をはじめとする「芸能祭」が行われた(写真3、4)ことが分かりました。従いまして、ムーラン海城公演は「昭和21年11月2日」と訂正させて頂きます。
その後、昭和22年卒業の何人かの方々から、ムーランについて調査するなら、同期の八尾俊道氏に話を聞いてみてはどうか、とのお勧めを受け、早速同氏にご連絡いたしました。
果たして、八尾氏より、「ムーランルージュ新宿座を海城に呼んだのは私なのです」とのご証言が得られました。ついに我々は招聘者をつきとめたというわけです。
八尾氏ご夫妻、そして八尾氏ご令嬢のお話では、同氏は、同期のご友人である有賀榮一氏とともに「戦後初の文化祭で在校生を喜ばせたい一心」で、かねてから有賀氏と連れ立って出入りをしていたムーランルージュ新宿座を本校へ招聘することを画策。八尾氏がムーランの経営者佐々木千里氏へ依頼したところ、その心意気にうたれた佐々木氏が快諾してくれた、とのことです。
八尾氏はムーランの経営者とのつながりはないようですので、あるとすれば有賀氏かもしれないのですが、まことに残念なことに同氏はすでにお亡くなりになっておられます。尚、余談ながら、八尾氏のお孫さん(木谷哲氏)も海城に学ばれており、編集子が一年間、授業を担当したことがあることも判明。しみじみ、この奇縁に感じいりました。
この取材直後、八尾氏は同期会にて作成された文集「われらの海城中学校時代」(平成元年十月発行。山本直三氏編・非売品)をお貸しくださいました。ここに、招聘の件を含めて当事の顛末を書いておられます(写真5)。
招聘者も判明し、爽やかな充実感と共に寛いでいた我々が、つらつらと海城新聞を眺めていると、昭和26年11月1日発行の同紙のコラム「三角山」に興味深い記事(写真6)を発見いたしました:
『昭和21年11月の、まだムーランルージュに明日待子その他の有名どころがいた当時、海城の文化祭に出演し、千名のヤンチャ坊主のドギモを抜いたことを知っている生徒も今はすくなかろう。その晩、一座を率いて来校した佐々木千里氏、某先生と新宿で酒宴を挙げ(編集子注:某先生とは可児虎夫氏のことではないか、とは昭和23年卒業の大貫金吾一氏のご指摘)、「永年こういう商売をしているが学校に招ばれたのは今日が初めてです。海城は文化的なよい学校ですね。」と盛んに感激していたという。』
新しい日本を建設せんとする中学生の心意気を汲んで、趣向を凝らした舞台をプロデュース。そして公演成功に祝杯を挙げ、本校を「文化的」と評された佐々木千里氏に、私は心から脱帽感謝をする次第です。
当時の世相に思いを馳せてみれば、このムーラン公演がどれだけ多くの海城中学生たちの心に火を灯したことでありましょうか。
昭和23年卒業の藤代能教氏は、我々の取材に対し、「その沿革から、戦後、GHQになにかと睨まれていたであろうと推察される本校の、戦後の進歩性を示す意味でもこの公演の意義は少なくない」と指摘されました。蓋し卓見でありましょう。
近日中に、ここまで我々ムーラン班が得た一連の調査結果を、調査のきっかけを与えて頂きました滝輝江さんにご報告することとなっております。滝さんのご感想が待たれます。
ところで、我々一座は、来る今月18日(日)に新宿歴史博物館で行われる「ムーランルージュ新宿座開館80周年記念シンポジウム」にお招きを受け、一連の調査について発表することとなりました(前日17日の14時半頃から本校文化祭の「海城寄席」にて先行発表する予定です)。滝輝江さんのご感想および、シンポジウムでの発表の模様は後日、リポートいたします。
最後に、種々お世話いただきました本校卒業生の皆様方、本当にありがとうございました。開校120周年というこの記念すべき年に、皆様方のおかげをもちまして、「埋もれつつあった」海城史のひとつに及ばずながら陽をあてることができたのではないかと存じます。この場を借りまして、厚くお礼申し上げます。
(古典芸能部顧問)
(写真2・運動会)
(写真3・芸能祭)
(写真4・芸能祭)
(写真5・ムーランルージュ)
(写真6・三角山)