昭和34年卒
徳光 和夫
フリーアナウンサー・海原会会長
運命の人と出会った高2の秋
当時の海城は、東京の高校の中で一番倍率が高かったんですよ、十数倍もありました。僕らの頃は都立高校が絶対で、都立を落ちた連中の受け皿になっていたんですね、海城は。かくいう僕も、都立の受験に失敗して海城に来たわけですけれども、男子校でしょ?男臭い学校ですよ。靴下のにおいなんかがする学校でした(笑)。
海城は、建学の頃は海軍予備校で、海軍大将だったり、俳優の早川雪舟さんという気骨のある俳優さんだったり、そういった人たちを卒業生として送り出していたという話は伺っていたのではありますけれども、僕の頃はロカビリーが全盛の時代でありましてね。リーゼントスタイルの生徒がけっこういました。制服や体操着なんかも、流行りのマンボズボン(裾が七インチぐらいの細いズボン)のように直しちゃうわけですよ。適度につっぱったと言いますか、若干軟派な、若干ひよったツッパリで、新宿には出ていくけれども、強面の連中が前から来ると道を譲ってしまう、そういう学校でしたね。
僕自身は、どこかしら皆に注目されたい、そういう所が多分にあったんじゃないかと思います。ちょっとウケを狙って、何かおもしろいことをやろうと考えているような生徒でした。
海城高校野球部
海城は部活動も盛んで、野球、柔道、サッカーも強かったですね。柔道は特に強かったな。気骨があって、E組つまり一流大学進学クラスに入るほど学業も優秀で。野球部も必ず都ベスト16まで勝ち進むくらい強かった。
僕は、小学校時代から野球が本当に好きで、野球雑誌なんかをよく読んでいて、選手の出身地や背番号が刷り込まれているような少年でした。自分でも一度、経験してみたいと思っていたんですけど、体が小さくてあきらめていたんですね。
でも、一緒に海城に入学した同じ中学出身の野球の上手い連中が野球部に入るのを見て、そいつらとは、とてもじゃないけど肩を並べることができないけれど、補欠でもいいからちょっと野球の経験をしてみようと思って、入部したんです。すると驚いたことに、監督が担任の先生で。国語の先生なんですけど、「あなたたち、授業を受けたいんだったら、受けなさい」とお公家さんのような感じの方だったんですね、黒板をバンバンたたくような感じではなくて。バッティング練習のときにバッティングピッチャーを担当してくださって、サイドハンドだったんですけど、打てないんですよ、スライダーが。烏帽子でも被ったら似合いそうな先生が野球帽が似合うとはまったく思いませんでしたね。
こうして野球部の活動に励んでいたんですが、夏の合宿が終わったところでちょっと体調がおかしくなりまして。検査をしましたら肺結核の手前だということで、野球を断念せざるを得ませんでした。
でも、野球部には何かしらの形で携わりたいと試合に必ず応援に行ったりしているうちに、六大学野球も観てみようとなったんです。
忘れもしない昭和32年11月3日。立教と慶応の試合で、長嶋茂雄さんが大学新記録となるホームランを打った日です。ボールが見事な放物線を描いてスタンドに入ってから、長嶋さんがホームにかえってくるまでの躍動感と喜び、そして軽快さ。三塁側で観ていた僕は、感性で受け止めたんでありましょうね。かっこいい。良い悪いとか正しい正しくないではなくて、とにかくかっこいい。それを目の当たりにしまして、何とかこの人の後輩になりたいと思いました。
海城の先生に立教大学を受けると言ったら、学力的にとても難しいと思うから、他の大学を勧められました。でも、予備校にも通って少しは勉強しましてね。親には、いくつかの大学を受けると言って4校分の受験料をもらったんですけど、全部、立教大学につぎ込みました。経済学部、文学部、法学部、難しかったですね。そして、最後の社会学部がですね、社会は日本史で受けたんですけど、10日ぐらい前に読んだ問題集のところがそっくり出たんです。これはもしかすると、と思って合格発表を見に行ったんですけど、自分の番号が出てない。もう長嶋さんはジャイアンツに入団していたんですけどね。それでも、やっぱり何としてでも長嶋さんの後輩になりたいので、来年また受けようと思いました。
でも、もしかして見落としているかもしれないから、もう一度、掲示板を確認して。やっぱり僕の番号はなかったんですけど、一番最後の合格者の番号の下に指先が書いてありまして、補欠はあちらと書いてあった。それで、ああ、補欠があるのかと。合格者の掲示板はさんさんと日の当たる場所にありましたけれども、補欠はね、プラタナスの木陰の寒風ふきすさんでいる場所に20人ぐらいの番号が出ていて、そこに僕の番号があったんです。
これは、喜びましたね。何度も何度も見直しましたね。これでとうとう長嶋さんの後輩になれる。そこからですね、人生が開けましたね。
海城が引き寄せた運と縁
運命というのは不思議なものですよね。
本当は噺家になりたいと思っていたんです。
小学生の頃から落語が好きで、「徳光、これを読んでみろ」と先生に指されると「え、私をお指しになる?」と返す。中学時代もホームルームの時間に先生が休むと教壇に座布団を敷いて、得意顔で廓噺なんかを披露して、誰もわからない…というような落語少年だったんです。
海城には当時、落語研究会はなかったんですけど、落語が好きな先輩がいて、その人と一緒に文化祭の時に講堂で落語を演じた覚えがありますね。それで、噺家になりたいと思って、柳家小さん師匠の家まで行ったんです。でも、門をたたく勇気がないんですよね。行ったり来たりしているうちに、「坊や、何なんだい。行ったり来たりして」とお弟子さんに声をかけられて。「あの…落語家になりたいんです」「お父さん、お母さんはちゃんと了解しているのか」「いや、してないです」「地方から家出してきたのか」「いや、目黒です」「目黒だったら帰りなさい。それでお父さん、お母さんがいいと言ってくれたら、もう一度いらっしゃい」。両親には言えませんでしたね、噺家になりたいと。この話と長嶋さんの試合を観に行った話が前後するんですけど、海城高校の2年生でした。
『運は縁に繋がり、縁は運を結びつける』。
僕の好きな言葉です。
自分の人生を考えますと、都立高校に行ってたら、海城との縁はなかった。海城高校に来てなければ、多分、僕は慶應と立教の試合を観てなかったんじゃないかなと思うんですね。海城の野球部が強かったので、応援に行くと気持ちが高揚する。その気持ちが大学野球と結びついたし、長嶋さんと出会うという縁に結びついて、長嶋さんとの縁がアナウンサーに導いてくれたんじゃないかなと、私の中で思っているんです。
海城で得た徳光流人付き合いの極意
アナウンサーになって、いろんなインタビュー相手がいて、その方にお会いするときに、一番最初に無意識のうちに、この人のどこが好きになれるだろうかと考えるんです。好きになったところがありますと、やっぱり話がかみ合う。相手もきっと知らず知らずのうちに好感を持ってくれると言いましょうか。どこか胸襟を開いてくれるような気がしています。
これは、海城学園時代に自分の中で積極的に取り入れたもの。
振り返ると、入学してから、この学校を好きになろうと思ったんですね。都立を落ちてここに来たけど、いつまでも引きずっていたら、この3年間が無駄になると考えまして。それで、学校の歴史をちょっと勉強したり、一人ひとりの個性的な先生について、自分なりに考えてみたり。
友達もどんどん増えていくと、嫌なヤツ、どうしても気が合わないヤツもいたんですけど、その友達に対しましても、こいつの何かしらのことが好きになれるだろうと思って接したんですね。こいつだったらこの部分は気に入らない、だけど、ここは好きになれる。アニメならアニメに夢中になっている、この部分が好きになれるなって。その好きな部分だけを見つけて、人付き合いをするようにしました。自分を活かせるいい職業に就けましたよね。
本当に海城での3年間が自分にとっては座標軸になったと思いますし、小学校、中学校、大学のどの時間よりも濃密でした。
男子校には、独特の開けっぴろげなところがありまして、男女共学では絶対に見せないようなことも友達に見せられる。本当に腹を割って話せるし、腹を割って喧嘩もできる。ある意味で恋愛に近いような友情が芽生えると言いましょうか。
今は海城高校時代の友人の消息が、僕の中で一番知りたいことで、キザな言い方をしますと、同級生の訃報が届くたびに涙します。その名前を見ただけで。そのくらい海城高校という学校は自分にとって日々が思い出深かかったかな。
オタクを極めて人としての魅力を磨け
今は海原会(海城学園OB会)の会長を務めさせてもらっていて、学校を訪問する機会が多いのですが、今の海城の学び舎は、お互いに大学受験という一つの方向を向きながら、友情を温め合っている、確かめ合っている。そういう学校であるなと感じられます。
我々の時のように、学校から解放されたらパーっと散っていくのではなくて、授業が終わった後も、青臭い言い方ですけれども、友情という大きな枠の中にいながら、海城の中で実にいい学生生活を送っているんじゃないかな。やっぱり青春というのはさ、キザに言いますと、柔らかい頭脳とやさしい心と、強靭な背骨、粘りですよね。こういったものを、野球部の応援に行っても、卒業式に参列しても、海城生の中に強く感じるわけですよ。彼らは進学校、受験校と言われておりますが、それだけが目的ではなくて、この3つの指針を海城学園の中でしっかり味わい、身に付け、それで巣立っていくんじゃないかなと思いますね。
海城生には、この6年間を常に頭の片隅に置いて、卒業してからも困った時など折に触れ、俺が過ごした6年間、ここで得たものは何だろうかということを思い返してもらいたいですね。
また、みなさんそれぞれの分野でオタクになっていると思いますけれども、オタクが「えっ!」と驚くようなオタクになってもらいたい。
ここに集まる生徒たちですと、それがありえるんじゃないかなと思うんですよね。僕もそうだったんですが、せっかく海城という学校で育っていくのですから、好きなことを見つけたら、とことん打ち込む。それがだんだん人としての魅力に結びついていくと思うんですね。
どういう人間が魅力的かと言いますと、求心力がある、安定感がある、それから自分の仕事に対してのマインドを持っている。これは、身に付けようと思って付くものではないと思うんです。それに、自分一人では生きていけないわけですから、いろいろな人と、たとえ嫌いな人とでも、多くの会話を持つ。今はデジタル時代で、特に若者は活字の会話をしてますけれども、せっかくここで良い友ができたわけですから、その友と多くの生の会話を交わす。
先ほど『運は縁に繋がり、縁は運を結びつける』と言いました。
運というものがあるかというと、もしかしたら、ないのかもしれませんが、私の場合は、海城で得たものが一つの軸となりまして、運と縁を引き寄せることができたかなと思います。それだけの価値がこの学校の中にあるぞと言いたいですね。偏差値50だった我々の時代も偏差値75の今の時代も同じことが言えると思います。
徳光 和夫
フリーアナウンサー・海原会会長